勉強ができなかった日のブログ

大学院生になりました。

メモ

備忘録として。

 

他人と生きるための社会学キーワード|第12回|学校の社会的機能──知識は他人と共有するからこそ意味がある|岡本智周

 学校教育で提供される知識や情報は、なによりもその内容が理解され意味を帯びることが意図されているのだが、それを学び知ることが地位獲得という「実績」に結びつく社会に私たちは生きてしまっている。目の前にあるのが私たちの社会を支えている知識であったとしても、それを通して社会の全体をとらえたり細部を深く理解したりすることよりも、それを「所有」することを重視し、選抜のゲームを進める「手段」にしてしまうのである。

 たとえば、ある人が社会の実情――格差や不平等、差別や人権問題――について学んだとしても、その学んだという事実をもって、その人自身は選抜での高い評価を得て、学歴や学校歴というものを上昇させていく。そこには「内容よりも形式が意味をもつ」作用が存在し、現実的には、問題状況――不平等を経験する現場――とは直接には関わらない社会空間を生きることになっていく。学びが他人事にしかならないことには、そのようなパラドキシカルな仕組みによるところも大きいのだろう。

 しかしそうは言っても社会の仕組みは変わりそうになく、個々人が働きかけることも少ない。ならば、知識の習得が地位獲得の「手段」となる仕組みが強化された社会でなお個々人にできることは、自分自身が何を学びその知識や情報をだれと共有していることになるのかを、正面から問い直してみることだろう。序列化されたスコアや相対化された評価とは異なる視角から自分の学びの意味をとらえ直してみることだろう。その知識や情報によって自分が結びついている具体的な他者やモノ・コトが見えてくれば、人びとの知識の共有によって私たちの社会が実際に回っていることにも、気づくことができるはずである。

 

 

 

他人と生きるための社会学キーワード|第10回|アンラーン──他者と共に生きるために、学ぶことより必要なこと|長 創一朗

 learn(学ぶ)に対してunlearnは、どのように訳したらよいか。一般的には、「学び返し」や「学び捨てる(学習棄却)」と訳されることが多い。lock(施錠する)に対するunlock(解錠する)をイメージするとわかりやすい。哲学者の鶴見俊輔は、ヘレン・ケラーとの会話で、「自分は大学でたくさんlearnしたが、そのあとunlearnしなければならなかった」と彼女が述べたことに対して、unlearnという言葉に、型どおりのセーターを編み、それをもとの毛糸に戻してから、自分の体型の必要にあわせて編み直すという情景を思い浮かべたと述懐している。そして鶴見はunlearnに「学びほぐす」という訳語を当てた。このようにunlearnは、いったん学んできたことがらを使えるようにするために解体する行為を指す(鶴見俊輔『教育再定義への試み』岩波書店、1999年)。

 今後ますます社会の変化が激しくなっていくなかで、自分とはさまざまな点で異なる人と共に生きていくことは避けられない。そのさい、これまで自分が学んだこと/学んでしまっていることが通用しないばかりか、むしろ害を生じさせる場合も出てくるだろう。自分が学んだこと/学んでしまったことを、学んだことで得られた自分の立場(特権)も含めて一度相対化し、他者とのかかわりのなかで組み直していくこと、すなわちunlearnすることは、私たちにとって必要不可欠な概念となっている。